論壇 若い研究者育てる環境整備を

井川洋二【いかわ ようじ】

 一昨年の科学技術基本法成立を契機に、国が科学研究に大型予算を投入し始めた。喜ばしいことではあるが、本物の科学を楽しむ姿勢が十分定着していない現状では、従前通りの研究費の単なる増額に終わる危険性がある。発想がオリジナルな研究者を選び、その選択が励みとなるように研究費の配分法を変えなければ、欧米から帰国し、これから独自の研究をと意気込む若者達に研究費が回らないことにもなろう。

 どう変えるか。まず、研究計画や予測成果を正当に評価するシステムを作ることである。欧米の優れた研究室では大勢の「ポスドク」(博士号取得後の研究者)を中心に、セミナー形式で競争相手の論文を徹底的に検討し、そのデータの裏側にあるものを見抜く訓練を行っている。グラント(研究費)申請書の審査委員はこうした研究室から選ばれた四十歳前後の精鋭二十数人で構成され、それぞれ担当した申請書の評価結果を理由と共に発表し、質問も受ける。審査委員としての能力も試されるわけで、審査の腕も上がる。判定結果とその理由は申請者に知らされ、研究への示唆と次回の申請にヒントを与えることにもなる。見習ってよいシステムだ。

 わが国で若い研究者の独創性発揮を阻む背景として、古くから行われている研究手法別の縦割り制がある。これから脱却するには、種々の研究手法を縦横に駆使しないと解けないような研究課題を立てて、研究費を応募させることである。私の研究領域で言えば、生体の中で血液系や神経系のもとになる細胞が生まれる仕組みや、環境に適応して変化した生物が、その変化をどう遺伝子に変えて、次の世代につなぐかなどの研究があろう。

 職業の固定化が、研究者の自由な発想を制限する要因でもある。流動性を一般化するため、大学院生から助手に直結することを制限し、若い間にいろいろな大学、研究機関を渡り歩いて、異なった個性に触れさせることも大事なことだ。

 一流の研究者がなかなか後進を助ける側に回らないわが国の風潮も困りものだ。この人たちが研究支援センターなど研究基盤を充実させる側に回って、小グループの若い研究者をバックアップすれば、研究効率を高め、質の高い研究を推進することができよう。

 以上指摘したことは、いってみれば当たり前のことばかりだが、長年のしがらみがあり、実現することは容易ではない。しかし、今世紀中に思い切ってしがらみから脱却し、新発見の興奮を分け合うという科学の原点に立って力をつけなければ、米国で貪欲(どんよく)に突っ走る中国人研究者らには到底かなわない。このままでは科学予算は増えても、国際競争には立ち遅れかねないと私は危機感を持っている。

 生物研究領域で二十一世紀に引き継ぐ成果にしようと「ヒトゲノム解析」での国際協力を開始した。ヒト細胞の持つ全 DNA の構造を明らかにして、その上にある遺伝情報を解明し、人類の福祉に役立てようという壮大なプロジェクトである。この計画は科学におけるわが国の器量を測る尺度ともなっている。

 当初は、遺伝子解析機器の開発、各染色体上の拠点となる個々の遺伝子の整備など、本来の基礎研究としてのゲノム研究に取り組んできたが、それでは欧米に遅れを取るとして、個々の遺伝子の研究に走る人が多くなった。しかし、個々の遺伝子研究を裏で支える基盤研究こそがゲノム研究であり、それを通して、世界の生物研究をつなぎ、多岐にわたる生物情報をファイルし、多彩な生物の起源・歴史を集大成する。こうして生物の成り立ちの深淵(しんえん)に触れることこそ、科学のエクセレンスというものである。

 世紀末の転換期に入ったこの時期にこそ、科学に於ける応急処置的対応を避けて、若い研究者を存分に走らせ得る研究環境を整えることが肝要だと思う。その上で、予測を超えた、将来の広がりが期待される創造的研究を育て、世界の研究者が競って来日するように周囲を変貌(へんぼう)させなければ、と思う。これは研究予算の請求上予測される成果としては直接書きにくいが、確実に日本の科学を飛躍させよう。

(東京医科歯科大学教授・分子遺伝学=投稿)
初出:朝日新聞 97年 9月 4日
ホームページへ戻る